長崎県で2番目に大きな平野「深江田原平野(ふかえたばるへいや)」
深江田原平野 お米がたくさん採れるね! というわけで、今回のレポートはこのへんで終わりにするよ。視界いっぱいに広がる田園 ……
壱岐の島は小さな島だけど、ここで暮らす人々の歴史は“旧石器時代後期”にまで逆上ることができるよ。島の発掘作業(勝本町「カラカミ遺跡」)によって、その頃に使われていたナイフ形石器や、台形状石器が見つかっているんだ。ちなみに、ナウマン象やオオツノジカの化石、それから日本最古の“家猫”の化石もねっ。
弥生時代の環濠集落跡「原の辻遺跡(はるのつじいせき)」は、登呂遺跡(静岡県)、吉野ヶ里遺跡(佐賀県)に続く、3つ目の国の“特別史跡”だ。『魏志』倭人伝に記された「一支国(いきこく)」の王都として特定されている。日本最古の船着き場の跡があり、住居跡や多くの出土品から、大陸の様々な地域との交易と交流によって栄えていたことがわかっている。(土器、中国の貨幣、三翼鏃(さんよくぞく)、人面石や、ココヤシで作った笛等)現在も研究が進む中、壱岐島の観光スポットとなっている。
住所:〒811-5322 長崎県壱岐市芦辺町深江鶴亀触1092−1
お問合せ:TEL.0920-47-3700(壱岐市観光連盟)
“弥生時代後期”になると、壱岐の島は大陸との交易と交流を行い「一支国」として栄えていた。今回紹介するここの場所は、その中心集落(海の王都)の跡「原の辻遺跡」というわけ。旧石器時代から中世までの複合遺跡さ。
今から約2000年前の弥生時代に、世界に開かれた海洋都市だったというから驚きだよね。中国の正史『三国志』の中の「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」で登場しているくらいだから、この辺りはそうとう有名な集落だったみたい。
原の辻遺跡の周りには広大な田畑が広がっているよ。当時の弥生人も、ここで米作りをしていたんだ。豊富な米と海産物は、中国大陸や朝鮮半島の最先端の文物と交換していたに違いないね。
今も、約100ヘクタールにも及ぶ広大な遺跡範囲をこつこつ復元整備が進められている。それでも発掘されて見えているのは、その約10パーセント程度なんだって。住居跡と一緒に、土器や日本唯一の“人面石”、ココヤシで作った笛も見つかっている。
遺跡の北側には、島でいちばん大きな川「幡鉾川(はたほこがわ)」が流れている。流域には「物部田原」「木田田原」「深江田原(河内盆地)」といった平野部が広がり、日本最古の船着き場の跡、原の辻遺跡もこの川の下流域にある。
住所:〒811-5322 長崎県壱岐市芦辺町深江鶴亀触(つるきふれ)515番地1
お問合せ:TEL.0920-45-2731
銅銭も多く出土しているよ。中国をはじめ、朝鮮半島やベトナム地域、琉球のお金もね。でも一支国は、モノとモノを交換する社会。通貨としてではなく交易品の一つとして持ち込まれていたんだってさ。祭祀(まつり)などで使われていたのかな。
というわけで、今回のレポートはこのへんで終わりにするよ。ここでしばらく遊んでいると、まるでタイムスリップした気分になるよ。もしかしたら、弥生人と出会えるかも?というのは冗談として、みんなも壱岐の「原の辻遺跡(はるのつじいせき)」へ足を運んでみるといいよ!きっと、楽しい思い出が出来るはず。そのとき、もし素敵なコトがあったなら、 コバルトくんにも教えてねっ。
壱岐島には他にも、「壱岐市立一支国博物館(いきこくはくぶつかん)」や、勝本町「カラカミ遺跡」もがあるから、チェックしてみるといいよ!では、最後までみてくれてありがとう!またねっ!