海からのメッセージ
本来、自然界は美しくて、どれだけ放っておいてもゴミひとつ出ません。改めて思うとすごい事ですね。ビーチは、私達が生命の起源という自然に直接触れる事のできる素晴らしい場所です。そこへ身をおくと、誰もが無心になり壮大な地球を感じることが出来るでしょう。私はカメラを片手に砂浜を巡るうち、その尊さについて意外なメッセージを受け取った気がします。どうやら、自然は確実に失われつつあるようです。
壱岐の海も例外ではない
ビーチクリーンという言葉が定着しつつあります。砂浜の清掃作業のことです。壱岐島の砂浜も、年間を通し定期的に清掃作業が行われていて、特に海水浴シーズンには、ほぼ毎日行われています。広大な砂浜に散乱したゴミを、ボランティアや自治体の方々が大きな袋を背負い回収されています。素晴らしい活動ですね。ここで注目していただきたいのは、それが夏の海水浴シーズンに限らず行われているということについてです。
現場に立つと、意外なことが判ります。人が訪れないような忘れられた砂浜ほど、むしろゴミが目立っているのです。実は、海岸線の汚染の原因は地元の人々や観光客によるゴミばかりではなく、その殆どが漂着ゴミによるもの。発泡スチロールの破片やプラスチック容器、それから漁具などの類です。マイクロプラスチックによる環境問題は、まさにここにも及んでいることが判ります。
海は繋がっているのに
全ての生物の起源である海は、今も無数の生物の営みを抱きながら地球規模で循環しています。当然人類もその恵みの一部であり、今も私達はその恩恵を受け続けています。ただし、世界全体における人類の生活や倫理観は、およそ食物連鎖のシステムには沿っていません。地球を俯瞰して見れば、私たちはそれを無視し宇宙規模のスケールの流れで生活を営んでいます。科学は進歩し、工業化が進み、人口は爆発します。残念ながら、自然を消耗することが、人類の性というものかもしれません。
この図は地球の水が全部入る球と地球の大きさを比べたもの。直径約1385km、体積約13億8600万立方kmの球― この中に海、氷河、湖沼、河川、地下水、大気中の水分、あなたの体内の水分、あなたの犬の体内の水分、あなたのトマトの水分まで全部含まれている。
危機感をいだけない
どうやら砂浜の美しさは、少なくとも人が意識しない限り維持できないようです。しかし、自然環境の保護を訴えるのは大変困難な作業です。なぜなら、リアリティーが持てない理由で、人の生活の殆どを否定することになるからです。「街のゴミも、全ての海岸に繋がっている」といっても、殆どの人に実感は湧かないでしょう。ものを買うとき、ビーチを汚染するとは誰も考えないでしょう。なぜなら、それは非常に間接的であり、人間はそもそも無意識に都合の悪いものを見ないようにして生活しているのですから。たしかに私達は、自然が無くなれば困ることを知っていて、生物として自然を愛しています。しかし、ゆっくりした変化や、遠くの変化を感じる事が出来ないのです。
直感に訴える
壱岐島の全ての砂浜を写真に撮って回った人がいたとします。その後彼は、どういうわけか決して海にゴミを捨てたり置き去りにしなくなりました。水筒を携帯し、極力ペットボトルの飲料を買いません。なぜでしょうか? 親や学校の先生から習っていなくても、誰から指摘されたわけでもなく、ただゴミが散乱していると悲しい気持ちを抱くのです。砕かれたプラスチックを餌と間違えて飲み込んでしまう魚たちのことを、心配したりもします。なぜなら彼には、実体験を通じ具体的な砂浜の記憶と、砂浜との関係性が生まれました。彼は、壱岐の砂浜のことが自分に関係があると感じているのです。どうやら、自分に関係すると思えたら人の意識は向かうということのようです。人は、能動的に構築された個人的な倫理観を、何よりも信じるもの。「地球の痛みは、彼の痛みである」というと大げさでしょうか。
「その砂浜がもし、あなたにとって素敵な思い出がつまった場所だったら?」
先入観
現在、過疎地域の海岸線は、まさに漂着ゴミでうめつくされています。しかし、1万人が水着で海水浴をしたからといって、海は汚れるでしょうか?自然破壊が進むでしょうか?答えはNOですね。ここまで読んでくださった方にはわかっていただけると思います。逆にむしろ、砂浜は美しく保たれるということを。人が衝動に任せて遊び楽しむことで、自然環境が守られるということはあるのです。シーズン中に毎日清掃作業が行われるのは、そこを訪問した人たちの誰もが嫌悪感を抱くからです。逆に、人知れず砂浜にゴミが溜まっていてもそこに人がいない限り、問題にすらならないのです。ここ壱岐で比較的に自然の美しさが保たれている理由は、人が多く訪れ、愛されているからです。
欲求と衝動
所詮、美しい自然を守るということは、その場所を自分たちの都合で「できるだけ長く楽しめるようにしたい」ということでしかないのかもしれません。でもそれでかまいません。その欲求は結果的に、自然保護の行動に繋がるからです。欲望負けた人類の衝動が、美しいビーチへ向かうということです。誰かが誰かを、否定する必要もされる必要もない未来です。ただし重要なのは、多くの人が美しい砂浜を知り、この自然を互いの人生の一部として直接的に感じられた場合に限られているということです。人は、自然から遠ざかるべきではありません。
砂浜を守ろう
主なゴミは、多い順に「海から流れてきたゴミ」「風で飛ばされてきたゴミ」「置き忘れのゴミ」です。つまり、人が直接意図したものではないのです。結局全ては、人間ひとりひとりの何気ない行いの積み重ねなのかもしれません。であるならば、1人でも意識が変わればいいのです。ただそれを繰り返せばいいのです。1000人のボランティアが集まりビーチクリーンを行うことも、行政や企業が仕組みや制度を作って産業系のごみを減らしていくことも、漁具の管理徹底や、農地からのごみ流出を止めることも、飲料容器などにデポジット制度を導入することすら、自然な行為です。
環境破壊は、特定の強大な力や組織のせいなのでしょうか。時にそれは、あなたの気持ちに反した動きをするでしょう。しかし政治や経済の世界ですら、私たち全体の需要には背けるわけではありませんね。つまりは結局、私たち全体の無意識の欲求を忠実に反映しているに過ぎないということです。環境破壊は、私たちのせいです。
ビーチで遊ぼう
「みんなでビーチで遊びまくって!」砂浜からのメッセージは、とても意外なものでした。そもそも、みなさんは全てと繋がっていて、一体であり、またその一部です。あなたの世界に、美しいビーチが存在するかどうかにかかっています。美しい砂浜は、壱岐市にとって財産です。しかしその行く末は、市民だけの問題ではありません。少しでも広く多くの方々に、その存在を共有して、身近に感じてもらい続けることが大切なのかもしれません。
「壱岐の砂浜を愛する全ての人に感謝します。」
セヴァン・カリス=スズキ(スピーチ 1992)
日本のみなさんへメッセージ(2007)
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