弥生時代へタイムスリップ!長崎県壱岐市「原の辻遺跡(はるのつじいせき)」
壱岐の歴史は、旧石器時代から 壱岐の島は小さな島だけど、ここで暮らす人々の歴史は“旧石器時代後期”にまで逆上ることができ ……
ほら、みんなは“世界遺産”って聞いたことがある?そう、世界的に有名な「マチュ・ピチュの歴史保護区」や「グランド・キャニオン国立公園」なんかがそうだよね。今回のレポートは“日本遺産”の壱岐島。‥なんだか凄いみたい。離島の日本遺産って、どんなものだろう?
というわけで今回は、2015年(平成27年)4月に認定された、壱岐島の『日本遺産』について、レポートしたいと思うよ!
“世界遺産”として見聞きするのは、ユネスコが認定する世界の歴史的価値のある物品や建造物、それから美しい町並みや自然などだよね。でも文化庁により認定される日本遺産はちょっと違う。日本のモノではなくて、“コト”なんだ。
つまり日本遺産とは、“歴史的魅力や特色のある事柄”って考えたら解りやすいかな。だから、例えば“お祭り”“歴史”“風土”など、日本にとって重要な地域の様々な事柄が、日本遺産に認定されるってわけ。初年度に全国で認定された日本遺産は18件。※(平成27年)2015年4月
「日本遺産(Japan Heritage)」は,地域の歴史的魅力や特色を通じて我が国の文化・伝統を語るストーリーを「日本遺産(Japan Heritage)」として文化庁が認定するものです。
壱岐で認定された事柄は、簡単に言うとその特別な歴史と風土。壱岐島は国境に位置しているから、弥生時代には大陸との海上中継・公益の拠点として王都が栄えた。逆に衝突時は、日本の国防の最前線だったんだ。そんな島ならではの歴史と、その痕跡が日本遺産に認定されたんだよ。
2015年(平成27年)4月、国(文化庁)により、壱岐の歴史・文化が「国境の島 壱岐・対馬・五島~古代からの架け橋~」と題され“日本遺産”に認定された。同時に、壱岐市内においてそのストーリーを構成する、10件の貴重な文化財(国特別史跡・国重文・国史跡・市史跡・未指定)の位置づけが発表された。
日本本土と大陸の中間に位置することから、長崎県の島は、古代よりこれらを結ぶ海上交通の要衝であり、交易・交流の拠点であった。特に朝鮮との関わりは深く、壱岐は弥生時代、海上交易で王都を築き、対馬は中世以降、朝鮮との貿易と外交実務を独占し、中継貿易の拠点や迎賓地として栄えた。その後、中継地の役割は希薄になったが、古代住居跡や城跡、庭園等は当時の興隆を物語り、焼酎や麺類等の特産品、民俗行事等にも交流の痕跡が窺える。国境の島ならではの融和と衝突を繰り返しながらも、連綿と交流が続くこれらの島は、国と国、民と民の深い絆が感じられる稀有な地域である。
これまでに確認されている、旧石器時代後期からの壱岐の物語。壱岐島には、日本の国際貿易や国防の歴史を物語る上で重要な、多くの古墳や出土品が残されている。中でも、特に重要とされる10件の文化財が、日本遺産の構成文化財として取り上げられたんだ。例えば、弥生時代に王都を築いた国際交流都市の先駆け「一支国(原の辻遺跡)」など。今でも研究が進められているっていうから、なんだか謎めいていてロマンがとまらないね。
認定ストーリーを構成する、壱岐市内における10件の文化財(国特別史跡・国重文・国史跡・市史跡・未指定)と位置づけ
弥生時代の環濠集落跡で、『魏志倭人伝』に記された一支国の王都。弥生時代、海外交易の拠点として大いに栄えた。
朝鮮半島系土器など交流・交易を物語る遺物が多く出土している。
6世紀後半から7世紀前半に築造された古墳群。古墳の出土品から、当時の壱岐は兵站基地であったとされている。
亀形飾金具・杏葉・雲珠などの金銅製の馬具類が出土しており、
朝鮮半島系の外来土器、鳳凰を表現した環頭大刀柄頭は韓国の古墳からも同形の柄頭が出土されるなど、交易・交流が活発であったことを物語っている。
豊臣秀吉が朝鮮出兵の際に築かせたとされる駅城。本丸を取り囲む石垣と、本丸への出入り口部分が残っており、天気がいい日には、彼方の対馬を望むことができる。
一支国と大陸を行き交う古代船が湾に停泊し、小舟に乗り換えて人や物を原の辻へ運んでいた。内海湾に浮かぶ小島は、現在、神が宿る島と呼ばれている。
壱岐の最高峰(212.8m)で、島全体の 3/4 を見渡すことができ、古代から防 衛の拠点で、烽火台があったといわれ ている。
弥生時代の環濠集落跡で、朝鮮半島系土器、漁労具が多く出土し、漁業や交易に従事した人々の集落であったといわれている。鉄生産用の地上炉跡は韓国南部の遺跡などに見られる精錬炉跡と似ており、当時最先端の技術で鉄素材を本土に供給する中継基地だったと考えられている。
16 世紀中頃松浦党の源壱(みなもとのいち)が 築いた山城。朝鮮や中国沿岸で私貿易 を行った倭寇の一人であったが、後に 朝鮮から貿易許可書である図書を受 け、正式に貿易を行った。
ここは弥生時代、海外の情報がいち早くキャッチできる、国際交流の中継地点だった。日本本土、朝鮮半島から移り住んだ人々も多かったんだって。だから壱岐には、焼酎(壱岐焼酎)、麺類や民俗行事など、国境の島ならではの文化が多くある。今もなお、国と国、民と民の深い絆は、四季折々の自然とともに、島民の生活・文化として受け継がれているんだ。
さすが、長崎の島ってかんじ!特別感がすごいね。日本の国際的な歴史を紐解く痕跡がいっぱい。今もみんなで島中を調べていて、構成文化財だけでなく、どんどん凄いのが出てきてるよ。どこまでも古のロマンがとまらないんだ。一度でいいから、この島に足を踏み入れて、その空気を味わってみたくなるね。どんな冒険が待ってるんだろうっ!?
というわけで、今回のレポートはこの辺で終わり。さーて、弥生式土器でお茶しながら、魏志倭人伝(ぎしわじんでん)でも読もっかな!なんてね!みんなもぜひ、実物を目の当たりにしてみたらいいよ!それじゃ、また次回ね!